摩訶不思議な銘レンズを追いかけて ~ドイツ製カメラと硝材の小話を添えて~

どうも、Takapoです。先日Nikon Z撮影会に参加させてもらったんですが、総額70・80万円以上の機材を使わせてもらえて感動しました。Z7のEVFすんごいよかったなあ…。まあ貧乏学生なんで、今買えって言われても買えないです(Z50でギリギリかなあ…)。で、今回なんですが、大変気になることがあったんでブログに書くことにしました。少しマニアックな話になるので、興味がない人にはつまらない内容になると思います。あと、新しい内容かつ長文のブログなので、一応先代や新部長にも一応簡単な許可はとっています。

※フィルムの全盛期に生きていた&詳細な資料を見て書いた訳ではないので、憶測が多数含まれており、情報に誤りがある場合があります

※長文なので、読む暇を長時間確保できない人に対しては、ブラウザバックを推奨します

前置き(長いんで飛ばしていいです)

今回の重要なキーワードは「ドイツ製」「レンズのガラス」です。

古い写真機材に固執する人達は、「ドイツ製」であることにこだわる場合が多いようです。例として、ニューカラー世代の高名な写真家であるスティーブン・ショア氏も愛用していたRollei35という高級フィルムコンパクトカメラを挙げてみます。Rollei35は、ドイツのカメラメーカーであるローライ(Rollei-Werke Franke&Heidecke、現Rollei GmbH)が初期のモデルをドイツ国内の工場( ブラウンシュヴァイク工場)で生産していました。しかし、このRollei35が登場したのは安価&堅牢な日本製一眼レフが一世を風靡し始めた60・70年代。国内の賃金が高騰したことでカメラ製品の生産コストが日本製の倍以上かかっていたドイツのカメラメーカーは、倒産や経営統合などで苦汁を嘗めていました。(Zeiss Ikon(西独Carl Zeiss)はカメラ事業から撤退、ファクトレンダーはZeiss Ikonに吸収合併、あのLeicaも倒産寸前(ウィルド社が買収)(M型のM4-2やM4-Pなどはカナダライツで生産)(ポルトガルでLeica R3を生産)などなど)。この時、ローライも例に漏れずこの波に打ち勝つことはできず、工場を海外移転することで人件費を抑え、より安価にRollei35を生産することにしました。Rollei35はこういった理由から、ドイツで生産された機体には「MADE IN GERMANY BY Rollei」、シンガポールで生産された機体には「MADE BY Rollei SINGAPORE」といったように刻印が分かれています(後の復刻版には「Made in Germany」のような刻印がされている)。結局Rollei35の生産は2014年に終了(復刻版の生産。それ以前のモデルは1981年に終了)してしまいましたが、現在においても、世界最小 (トイカメラやMINOXなどを除いて) の135フィルムを使用する機械式高級フィルムコンパクトカメラとして高い人気があります。

弊部の新部長が持っているRollei35。今までに合計3台所持していたそうです

で、長々とRollei35の生産云々について話したのには訳があります。現在中古市場でも多く扱われているRollei35ですが、この刻印や生産国が違うだけで値段が左右されるそうです。もちろん高値がつくのはドイツ製の方。まあシンガポール製も、露出計はゴッセン製、シャッターはコンパー製といったように、部品をドイツ国内で生産して、組み立てだけをシンガポールでしていた様なので、中身は全く変わらないみたいですが…。ただ一応補足しておきますが、Rollei35には様々な種類があって、スプールが金属製かプラスチック製か、露出計があるとかないとか、ボディが金属かプラスチックか、レンズがZeissかトリオターかなどの様々な違いがあるので、生産国が違うだけで値段も変わる、とは一概には言えません。(中古市場でドイツ製カメラ機材が贔屓されてるって言いたかっただけなのに、何でこんなに長くなったんだ…。)まあ、とりあえず中古市場においては、ドイツ製のカメラというのは高く評価されがちであり、Made in Germanyという刻印があるだけでも評価が変わってくるということです。

ロシアカメラのKiev4。ほとんどが旧ソビエト連邦内で製造されましたが、一部が東ドイツのカールツァイスの工場で製造されました。

ここで何故ドイツ製のカメラには高い評価がされるのか、という疑問が湧いてきます。これについては、カメラの歴史と紐づけて考えることができます。もちろん写真の保存が可能なカメラ自体は、フランスのニセフォール・ニエプスが使用した木箱型カメラによって産声をあげましたが、手持ち撮影が可能な35mm幅のフィルムを使用する小型カメラの歴史はドイツから始まりました。また、ドイツのドレスデンやイエナなどにはカメラやレンズを製造する会社が多数存在し、SonnarやTessarなどのレンズ構成を産み出したカールツァイス財団(Carl Zeiss)とそのカメラブランドであるコンタックス(Contax)、オスカー・バルナックが産み出したバルナックライカと、小型カメラのために作られた高性能なElmarやSummaronなどのレンズを製造するエルンストライツ(Ernst Leitz Optische Werke、現Leica)、世界最古のレンズメーカーで、レンズの巨匠トルニエ博士が作り出したUltronやXenonなどを製造するファクトレンダー(Voigtlander)、レンズメーカーの中でも老舗で、様々な国にレンズを輸出したシュナイダー・クロイツナッハ(Schneider)などの名門カメラ&レンズメーカーがひしめき合っていました。これらのカメラメーカーでは、職人がカメラボディを金属の板から叩いて作り、手作業で部品を組み立てていました。また、レンズも「ドイツの科学は世界一ィィィィ!!」というだけあって(?)写りが大変素晴らしかったのです。ただし、お値段は家一軒が建てられると比喩されるくらい、びっくりするほどお高かったようです。これらのことを踏まえて当時のドイツ製カメラに対する事情を簡潔に説明すると、「ドイツのカメラメーカーはフィールドカメラや市井の人々が使うカメラ機材のパイオニアであり、また極めて品質が高かったことから、戦前から60年代初頭までのカメラマンにとって羨望を集める対象であった」ということです。ちなみにこの頃の日本においては、戦前に世界発のコンタックスクラブが設立されたり、ライカVSコンタックス論争が起こったりと、ドイツ製カメラに対する関心が非常に高かった、というのも大きな特徴です。こういった経緯から、今でもドイツで作られたカメラには高い評価がされており、21世紀現在でも職人の手作業による生産が続けられているLeicaのカメラには憧れが集まっている、という訳です。

バルナックライカのLeica Ⅲf。ちなみにⅢfは板金ではなくダイキャスト製です。

これらのドイツのカメラ&レンズメーカーの黎明期を裏側で支えていたのは、レンズのガラスを製造していたショット社です。この会社は、1879年にドイツの天才ガラス工であるオットー・ショットが、イエナ大学の講師でカールツァイス社の共同経営者であったエルンスト・アッベと対談し、その後技術提携を交わして設立した「ショット・ゲノッセン」(Glastechnisches Laboratorium Schott & Genossen)と呼ばれる工場と「ショット ・ アンド ・ アソシエイツ ・ ガラス技術研究所」(Schott & Associates Glass Technology Laboratory) が起源です。また、この研究所では設立からたった2年の間に40種類を超える新たなガラスを開発しましたが、その中でもクラウンガラス(バリウムクラウンガラス)は特に有名です。このガラスは屈折率や分散能が小さいことから、アナスチグマット(球面収差や像面収差が解消されているレンズ。プロターともいう)の開発を可能にし、後のTessarなどの銘レンズの開発に大きく貢献しました。結局「ショット・ゲノッセン」と研究所は、1919年にオットー・ショットによってカールツァイス財団に全ての株が譲渡されたことで、カールツァイス主導の経営に移行しましたが、その後も譲渡以前と変わらぬ操業を続け、カールツァイスやシュナイダーといった会社にレンズ用硝材を供給していたようです。また「ショット・ゲノッセン」では、実験用ガラス製品やガス灯用ガラスの製造なども行っており、その製品が大変素晴らしかったことから「イエナガラス」として名声を獲得していたようです。結局第二次世界大戦後には、カールツァイスと同じく東西に分裂してしまいますが、1995年に合併し元通りになり、現在は「ショットAG(Schott AG)」として、産業用ガラスや光学機器向けのガラスの製造を行っているそうです。これらの歴史に関しては、ショット社の公式ホームページに具体的な物事が書いてあるので、是非読んでみてください。まあ英文なんですけど()。

ここまでが、今回のブログを読むにあたって必要な事前知識です(ホンマか?)。

※ショット社の設立から戦後直後までに関する詳しい文献が見つからず、また文献によって情報がまちまちで確実な情報が得られなかったため、ショット社に関する記述部分の後半以降に対する信頼度は極めて低い。ショット社公式のホームページ内にある沿革も閲覧したが、私の英語力の低さから確実な情報を得たとは断言できない。

経緯

フィルム写真は写真技術的な物事を除くと、レンズとフィルムで全てが決まります。またフィルムカメラは、レンズを通った光でフィルムを感光させることによって風景などを記録することができる訳ですが、メーカーごとのレンズの特性などによって、記録される絵の描写は少し変化します。例えばNikonのレンズは解像力が高いことから風景や報道写真の分野に強く、Minoltaのレンズはボケ味が強いことからポートレートに向いている、といった傾向があるそうです。これは写真表現のような概念から考えると無意味な物事であるようにも感じてしまいますが、人間は細かいところが気になってしまう生き物なので別にいいんです。しょうがないんです(無理やり)。こういった経緯から、フィルム写真を積極的に撮る人はデジタル機材しか扱わない人と比べて機材に拘る傾向があると考えられます。だから機材が増えるのは仕方ないんです。まあ言い訳なんですけど。

自分は最近フィルムカメラを扱って写真を撮るようになって、こういった概念を知る機会が増えました。今はLeica ⅢfというL39マウントのカメラを扱う機会が増えているのですが、金欠だったことから妥協して友達から安く購入したIndustar-22 50mm f3.5しか使っていません。最近になってf3.5より明るいレンズが欲しくなってきて色々調べていたんですが、段々とNippon Kogaku NIKKOR-H・C 5cm F2(Nippon KogakuはNikonの旧社名)というレンズが気になるようになりました。調査可能な情報源を色々と調べた訳ですが、その中で特別な硝材な使用したレンズの話が出てきました。(後日談ですが、結局Canon Serenar 50mm f1.8買いましたorz…何でNikonレンズ買わなかったんや…)

「摩訶不思議な銘レンズ」とは

Canon Serenar 50mm f1.8。今回話している銘レンズと見た目がよく似ている

日本光学工業(現Nikon、これ以後日本光学工業は「ニコン」と表記する)が戦後にショット社の硝材(レンズ用のガラス)を用いて製造したレンズです。箇条書きにして説明すると

・第二次世界大戦末期にドイツからショット社製の硝材を潜水艦を利用して輸入

・戦後にニコンが製造しているカメラ用レンズに上記の硝材が使われる

・このショット社製の硝材を利用したレンズは大変写りがよい(独特な絵が撮れる?)

・現在ではこのショット社製の硝材を使用したレンズがコレクターズアイテムとして扱われている

といった具合です。ちょっとこれだけだと説明不足なので、もう少し具体的に説明します。

元々ニコンは、 大正時代の設立当初から第二次世界大戦末期まで、 レンズの開発・製造以外に、陸軍や海軍が使用する光学系機器の開発を担当していました。例えば、敵戦闘艦との距離を測る測距儀や、小銃の上部につける狙撃用の照準器、双眼鏡などです。これらの機器に使われるレンズの生産にはもちろん硝材が欠かせないのですが、軍事使用目的であることから高い精度が求められており、従って硝材の中でも屈折率が高く透過性が良い高級なものが使われていました。(ただ、硝材がどこから供給されていたのかは調査不足で不明です。日本は良質な硝材の製造に苦戦していたという話を聞いたことから、ドイツから輸入していた可能性が高いのですが、戦時中は入手困難であったはずです。ニコンが硝材を生産していたという話もありましたが、真相は不明です)そして第二次世界大戦末期のドイツ敗北が間近に迫ったころに、海軍は潜水艦を使ってショット社の硝材をCarl Zeiss Jena経由で輸入しました。その後この硝材はニコンに渡されたそうですが、軍向けの光学機器に使用する目的であった、と容易に推測できます。しかし、この硝材が何故か戦後に民生向けのニコンのレンズにも使われた、という話があるそうです。

戦後においてニコンが製造したレンズの中に、「NIKKOR-S・C 5cm F1.4」と「NIKKOR-H・C 5cm F2」というレンズがあります。このレンズは、Nicca ⅢfやNicca Type4などのニッカカメラが製造・販売していたバルナックライカコピーの標準レンズとしてL39マウントのものが供給、もしくはNikon Sシリーズの標準レンズとしてSマウントのものが製造されていたわけですが、その中に他の同種と比べて格段に解像度が高く、良い写りをするレンズがあるそうです。そのレンズの製造番号は8桁で、最初の4桁が「5005」。他の同種のレンズは6桁しか製造番号がないのに、このレンズだけは8桁なのです。その正体が、先に説明したショット社製の硝材を使ったレンズです。ちなみに、ニコン通の方には「5005」と話すとすぐわかるそうです。

結論として簡潔にまとめると、「戦時中にドイツから輸入された上質な硝材を、何故か戦後にカメラレンズの硝材として使用したことで、ものすごく良い写りをする銘レンズができちゃった」ということです。まあ戦後に余っちゃった硝材をもったいないからってレンズに使用したとか、そういった経緯が思い浮かぶわけですが、真相は不明です。当時の技術者とか製造責任者の人とかしか事情を知らない訳だし。

銘レンズを追いかけて

これらのことを調べた後に、いざどこで「5005」が売買されているのか探してみたわけですが、全然情報が集まりません。そもそも「5005」のようなコレクターズアイテムは、日本だとネット通販やオークションではなく中古カメラ店で一対一に向き合って取引を行うのが常ですし(ホンマか?)、レアな品は事前に「何々が欲しいんで、もし入荷したら連絡してほしい」のような話が通されていて取り置きされているので、一般に流通していることは極めて稀なのです(知らんけど)。

その他の取引が行われている場所として、eBayのような海外の大手オークションサイトや、中古カメラ店が主催するオークションを挙げることができます。例えば、アメリカのLeica専門ディーラーであるTAMARKIN CAMERAが主催している、レアものを取り扱うオークションなどです。日本でもこの例とよく似たオークションはいくつも開催されているのですが、会員制であったり情報が公開されていない場合が多く、全く情報が集まりませんでした。

結局2つだけ取引が行われた記録を探し出しましたが、どちらも10万近くの値段が付けられていました。普通のNIKKOR-H・CやNIKKOR-S・Cのお値段は2万前半から後半ら辺なので、4倍近いお値段がつけられているという訳です。まあコレクターズアイテムなんで、当然といえば当然のお値段なのですが(むしろ安い)。

銘レンズと有名な写真家に関する推測

これらのことをまとめた後に、不意にピンときたことがあります。ニッコールレンズを世界に広めたデビッド・ダグラス・ダンカン氏に関する推測です。ダンカン氏はアメリカの高名な報道写真家で、彼に関する数ある有名な話の中でも「朝鮮戦争中にニッコールレンズを使用して撮った写真がライフ誌に掲載されたことによって、世界にニコンの名前が広まった」という話は特に知られています。この話を思いだした時に、「実は彼が朝鮮戦争中に使用したニッコールレンズにショット社製の硝材が使われているのではないか」、という推測が思い浮かんできました。補足として説明しておくと、今回の「5005」は、「製造番号の最初の4桁が5005なのは、1950年の5月に生産されたから」、というのが通説なようです。また、ダンカン氏がニコン大井工場訪問後にニッコールレンズを購入したのは50年の6月です。仮定として5月に製造されたレンズを6月に購入したとしても、 1ヵ月の違いであれば何ら問題がある訳ではなく、むしろ「5005」を購入していたとしても何ら不思議ではないのです。ただ、彼が購入したのは50mm F1.5(NIKKOR-S・C?)と135mm F4なのですが、50mm F1.5に関しては製造数が800本程度と少ないことから、全然情報が集まりません。また、「5005」に関する情報のほとんどがNIKKOR-H・C 5cm F2やNIKKOR S・C 5cm F1.4などであり、50mm F1.5にショット社の硝材が使われた、というような情報を見つけることができませんでした。また、50mm f1.5自体、ContaxのSonnarのコピーであり、50年の4月に製造が終了しているという話も見つけました。つまり、真相は不明という訳です(`・ω・´)キリッ。この機会に「This is war!」買おうかなあ…。

補足(自戒を込めて)

一応補足ですが、実はショット社製の硝材を使用したニコンレンズというのは他にもあります。例えば 70年代から製造されたNIKKOR-H 300mm F2.8 の初期型です。もちろん使われた硝材は戦前に製造されたものではないと思いますし、ショット社のマレーシア工場で製造された可能性もありえます。また、レンズや硝材の技術は日々進化していて、戦後当時と比べれば硝材の種類は段違いに増え、レンズの設計技術もまた格段に進歩しているのです。それを踏まえて考えると、今回取り上げた「摩訶不思議な銘レンズ」に関しても、「L39マウントのニコンレンズの中でも良い写りをする」のであって、現行のレンズには太刀打ちできないのが現実だと思われます。また、デジタル用のレンズとフィルム向けのレンズは、受光部分(デジタル素子とフィルム)の違いから、レンズ構成から設計思想まで色んな部分が違う訳で、比較がしにくいというのも事実です。そもそも「写真は解像度が高いほど良いというわけではない」というのはよく知られた話ですし、機材のブランドや付加価値に捕らわれて周りが見えないうちは、良い写真なんて撮ることができないのです。つまりこのレンズは、何故か今もニコンのL39マウントのレンズを使っている物好きや機材オタクたちにとっての憧れの的、または好事家達にとってのコレクターズアイテムでしかないのです。(今はデジタル機材で撮った写真ならRAW現像ソフトで大分編集できるし、「レンズが全て!」っていう時代は終わったのかも…。いや、自分大三元レンズ欲しいけど。)

あとがき

弊学図書館7階にある機械工学のフロア。レンズ系の書籍は大体ここに置いてある。

今回このブログを書くのと並行して、ネットの記事や学校の図書館内にある文献を多数熟読しました。当たり前ですが、金沢工業大学は工学系に特化した大学なので、レンズの歴史や設計、収差係数などに関する文献が多数保管されていて、大変興味を惹かれました(大学に媚を売るスタイル)。正直に白状すると、レンズ設計や光学系の数学に関することは何にもわかりませんでした。元々数学が苦手というのもあるんですが、どうやらこの分野は機械工学で扱うとかで、その他の知識的な内容に関してもチンプンカンプンでした…。仕方ないので、それ以外で特に面白かった書籍を3冊紹介します。

・カメラと戦争 ~光学技術者たちの挑戦~(出版:朝日新聞社(朝日文庫)、著者: 小倉磐夫 、2000年初版出版)

小倉磐夫氏による文庫本です。内容は著作権の問題があることから省略しますが、日本におけるカメラの歴史などについて興味がある人には是非ともおすすめしたい一冊です。初版は2000年ですが、現在でもAmazonなどで購入が可能なようです。弊学図書館では、2階の文庫本エリアに置いてあるので、興味がある人は是非借りて読んでみてください。

・東ドイツカメラの全貌 ~一眼レフカメラの源流を訪ねて~( 出版:朝日ソノラマ、著者:リヒァルト・フンメル、リチャード・クー、村山昇作,1998年初版出版)

表紙にCarl Zeiss Jenaのロゴが印刷された不思議な書籍です。カメラメーカーが多数あった東ドイツにおけるカメラ事情や歴史に関して記述された本なので、ドイツのカメラや歴史について興味がある人には、是非とも読んでほしい一冊です。

・カールツァイスのすべて(出版:枻出版社、発行人:漆島嗣治、編集人:駒井誠一、1999年初版出版)

カールツァイスの歴史やカメラに主眼を置いて解説された書籍です。この本を読んでいるうちに、Hasselblad 500c/mがまた欲しくなってきました。お作法を守ってお辞儀しながら写真を撮ってみたいですね。ただ、今のところ中判をやる予定がないので、機会があれば買ってみたいなって感じです。

あと余談なんですが、ドイツ製レンズって実は当たりハズレがあるそうです。国産レンズと比べて高い癖にって思うかもしれませんが、事実な様です。ロシアンレンズにも同様のことが言えます。また、戦前の日本製レンズは鏡筒部分の製造技術の低さなどから、ドイツ製と比べて粗悪な印象を受けるそうですが、戦後はなんやかんやあって高水準なレンズを量産しています。従って、自分はオールドレンズ初心者に対して国産レンズを推していきたいと思います(なんの話やねん)。

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